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もう一度軽く頭を下げながら、それまで馬を眺めていた房一はふりかへつて相沢を一瞥した。彼は何故だか判らぬながらに、相沢の話振りから一種不快な響きを聞き分けていた。
「あんたも、おめでたいさうで」
「このまゝでは責任者を出さなくてはならなくなる。手落ちは向ふにあるとしてもですよ」
「いや、挨拶まはりですよ。どうぞよろしく」
徳次は年下だつたせいもあるが、子供の頃やはり泥まみれになつたり、着物の裾を水浸しにしたりして、房一の行く所にはいつもついて行つたものだ。彼は房一の悪戯いたづらの共謀者でもあれば手下でもあつた。彼の単純な胸の中には、いまだにその頃の房一に対する尊敬の念が残つているのである。房一が「医師高間房一氏」になつて河原町に帰つて来たとき、子供の頃の房一の記憶を一番大切にしていて、それをつい昨日のことのやうに憶ひ出していたのは恐らくこの男だけだつたらう。それにもかゝはらず、房一は世間的な仕事に気をとられていて、彼のことを失念していた。徳次は甚だ心外であつた。だが、その臆病さのために自分から房一の前に姿を現すやうなことはしなかつた。彼はその不満を汚い家の中で垢だらけの子供達を肩につかまらせたまゝ、自分の妻に話して聞かせた。それだけだつた。他の人の前ではちつとも洩らしはしなかつた。若し口に出せば、大声をあげて町中を走り、房一の家に荒ばれこみたくなるにちがひない、と自分でも思つていた。それほど彼の心外さは深かつたのである。
さう云ふ房一の前に立つて、徳次は子供が手いたづらをするのとそつくりな様子で傍にひよろ長く生えていた草を片手でむしりとり、口にくはへた。さつきはじめて傍へ近よつたときのやうに、彼の顔は又紅らみどこか力んでいる表情を浮かべながら、口のあたりをもごもごさせた。
練吉は眠気から覚めたやうに、
控へ目に坐つて、注いだ茶碗を盆の上に揃へると、
坐りなり、あたりを見まはした。眉の強い、眼の切れ目な、短いつまみ立てたやうな鼻髭を生やした今泉の稍冷い顔つきは、それだけで云ふなら確かに整つた立派な顔だつた。苦味走にがみばしつて男らしかつた。たゞ何か大切なものが欠けていた。彼は身近かに、皆から稍やゝはなれて手持無沙汰にぽつねんと坐つている房一を見つけた。
道平はゆつくりと首を動かして訊いた。
それは一尺近い美事な鮒だつた。だが、三匹きりなかつた。いかにも少いと徳次は路々思つて来た。さう思ふと、この鮒が本当よりもずつとちつぽけにさへ見えて来たのである。
京都で行はれる御即位の大典はもう四五日後に迫つていたのだつた。その日、陛下は黄櫨染はぜぞめの御袍を召されて紫辰殿ししいでんに出御され、大隈首相は衣冠束帯で階前に進み出で万歳をとなへ、全国一斉に称和する予定で、その奉祝の催しでは河原町の各区内がそれぞれ知慧をしぼつていたのである。